超硬合金イゲタロイの誕生にまつわる歴史をご紹介します。

第1章 超硬合金「井ゲタロイ」の誕生

世界最初の超硬合金が1923年(大正12年)ドイツで誕生し、「ウィディア」と名づけられてクルップ社から1927年(昭和2年)に発売されました。同年、当社でも超硬合金の研究が始まり翌1928年(昭和3年)、超硬線引きダイスの試作に成功。1931年(昭和6年)に超硬切削用バイトを商品化、ここに「井ゲタロイ」が誕生しました。戦前戦中は当社独自の製法で企業化され、軍需を中心に生産が伸びました。戦後は、イゲタロイの再建を図るための市場開拓や基礎研究、応用開発が行われ、新工場建設と海外からの技術導入も進められたことにより、生産の拡大や新材種、新製品の開発も進み「イゲタロイ」の基礎が形成されていきました。

当時の写真と解説

超硬ダイスとバイト

超硬工具「イゲタロイ」のルーツともいえる超硬ダイスは、1928年に自家用の線引きダイスとして製作に成功し、1931年に市販を開始。終戦直後の1947年に米国へ初輸出を果たしています。一方切削工具は社内の圧延ロールの溝削り用バイトの研究からスタートし、「井ゲタロイハードアロイ」の商品名で1931年から市販を開始した後、1935年には鋼用S号バイト(Ti、Ta入り)の販売も開始しました。

榛葉久吉氏(故人)

1929年10月の榛葉久吉氏(大正13年〜昭和22年、当社勤務。工学博士)の研究報告から、失敗を重ね、原料を選び、設備を工夫し、独自の製法で超硬合金を製造するまでの苦労を伺うことができます。

Wc-Co組織写真(例)

戦時中の作業風景(1941年頃)

戦時中には、超硬ダイスの研磨作業をしたり、女子検査員が腰掛を並べて比重測定をしている風景が見られました。記録によれば1944年(昭和19年)には、井ゲタロイ生産の人員は男子1200人、女子880人で生産量は月産2トンにのぼりました。

戦時中の作業風景(1941年頃)

戦時中には、超硬ダイスの研磨作業をしたり、女子検査員が腰掛を並べて比重測定をしている風景が見られました。記録によれば1944年(昭和19年)には、井ゲタロイ生産の人員は男子1200人、女子880人で生産量は月産2トンにのぼりました。

鉱山工具の登場

戦後の復興期は石炭増産政策に対応すべく、最重点課題として開発された「オーガードリル」や「コールカッタビット」、「ロックビット」などの採炭用やさく岩用の鉱山工具がイゲタロイの新用途を拓き全盛期を迎えました。

南西側から見た伊丹製作所全景(1952年頃)

井ゲタロイの増産を目的として、1941年3月に伊丹製作所が開所。戦時中は軍需中心で、井ゲタロイ工場はフル操業が続きましたが、終戦により需要が激減。その後、朝鮮動乱に伴う特需ブームや石炭産業の活況に助けられ、伊丹製作所も次第に復興再建。工場群も拡張整備されてきました。 イゲタロイ関係では、主力の合金工場の東側に南からカッタ・ダイス・バイト・機械・検査の木造平屋の工場5棟が並んでいました。

旧・研究7号館

伊丹製作所開設当時の面影を残す所内で最古の木造工場建屋(現・粉合資材倉庫)。1950年代には研究7号館(伊丹第2研究課)として使用され、セラミック工具「アロックス」もここで誕生しました。

第2章 チップ・バイト・カッタなど新製品が萌芽

経済白書が、「もはや戦後ではないー」と宣言した1956年(昭和31年)。その年の6月に「イゲタロイニュース」が創刊されました。さらに「イゲタロイ会」の組織化や「全国特約店会議」創設など販売機構の整備にも着手し、営業ならびに広宣活動の基盤固めが始まりました。セラミックやサーメットなどの新工具材料・スローアウェイ(刃先交換)チップ・バイト・カッタなどの新製品が萌芽したのもこの時期(1950年代後半)であり、1960年代からのイゲタロイの発展へとつながる原動力となりました。住友電工で最初の事業部である粉末合金事業部(ハードメタル事業部の前身)は、まさにこのような時期に誕生しました。

当時の写真と解説

イゲタロイ合金工場

1952年に建設されたイゲタロイ新合金工場(能力4トン)は、1958年と1961年に相次いで拡張され、近代的な超硬合金設備を備えた新鋭工場として完成。その後もさらに設備増強や生産技術の開発が積極的に進められ、最盛期には30トンの能力をもつ質量ともに世界トップクラスの超硬合金工場へと発展しました。

講演中のキーファー博士

1955年3月当社に粉末冶金の技術指導のために来訪された世界的権威者のRichard Kieffer博士(MP社)が「粉末冶金の今明日」と題して講演(4月9日大阪)された時の写真(この日50才の誕生日)

M.P社と技術提携、相つぐ新材種発表

1953年3月、オーストリアの Metalwerk Plansee(MP)社と技術導入契約を結び、翌年には新材種(ST種、U種、H種)を発表。さらに1959年に登場した「A40」はハイス工具の分野にまで食い込むほどの強靭合金として反響を呼びました。 上の写真は新材種を用いて重切削を行っている住友金属工業(株)大阪製鋼所殿での現場風景のひとこま。

代表的な超硬製品(当時)

戦前・戦後を通して当社の最も得意としてきた線引き用ダイス・管引き用プラグ・ろう付けバイト・ロックビットなどに加え、1955年にはフライス用の「マイスカッタ」を発表。手軽な操作が現場で喜ばれました。

ダイス工場

線引きや管引きに用いられる超硬ダイスやプラグのラッピング(研磨)作業には多くの人手を要しました。しかし今日では、これらの風景もすっかり姿を消してしまいました。

バイト工場

超硬バイトの加工には、高周波ろう付け・ダイヤモンド砥石による刃先研削・シールピールによる刃先保護被膜・ローラーコンベアによる流れ作業方式など新技術が採用されていました。

カッタ工場

各種の研削盤を主体とした外国一流メーカーの優秀機が多数設置され、さらに1950年代からは放電加工技術を取り入れ、高精度で複雑な工具にも対応しました。

イゲタロイ加工工場

1962年、合金工場に隣接して3階建ての新加工工場が竣工。精密加工(1F)・耐摩工具加工(2F)・スローアウェイチップ量産品加工(3F)の合理化された加工ラインが整備され、それまでの木造平屋の工場から移設し、面目を一新して近代化へのスタートを切りました。

横型連続モリブデン炉

わが国初のベッセル型高周波真空炉

SECバイトの出現

当社のスローアウェイ工具の開発の歴史は1950年代初頭(昭和27年頃)に端を発しますが、事業としては原型の「1型SECバイト」に改良を加えた「2型SECバイト」の発売開始(1959年)を「スローアウェイ元年」としています。 翌1960年には偏芯ピン式の「3型SECバイト」が登場し、スローアウェイ化時代が幕を明けました。

「SEC」:Steady & Eazy Clamp(確実で簡便な保持)の略で、当社のスローアウェイ工具の総称

穴つきブレーカつきの研磨級チップ

国産第1号のSECカッタ

バイトに次いで、スローアウェイ化の試みはフライス加工用のカッタにもおよび、独自設計による国内最初のスローアウェイカッタ「SEC M型」の開発に成功(1961年)し、第4回国際見本市に出品され世間の注目を集めました。

アロックスの誕生

当社では早くも1950年代半ばに切削工具用セラミックの研究への取組みが開始されました。1959年にAl2O3系セラミック「アロックス」が誕生しましたが、強度不足を克服することが出来ませんでした。それから20年後に世界初のHIP処理(熱間静水圧プレス)セラミック「W80」「B90」が開発('78〜'79年)されるにおよび、漸く実用的なセラミック時代を迎えました。

スミトモホワイトW80 / スミトモブラックB90

イメージキャラクター登場

1960年代には販売組織や広告宣伝でも斬新なアイデアが採り入れられ、その一つにイメージキャラクターが登場しました。

国内初のサーメット工具

国内において、いち早くTiC系サーメットの開発に成功し、1960年に「タイカット」の商品名で発売。 日刊工業十大新製品賞を受賞し、超硬合金、セラミックにつぐ第3の工具材料の幕明けとなりました。 国際見本市会場の当社ブースにおけるタイカットの切削実演は、連日大勢の来場者で賑いました。

国内初のサーメット工具

イゲタロイサービスカー登場

業界トップを切って「イゲタロイサービスカー」が登場したのが1957年。研磨機やろう付け装置を装備し、イゲタロイのPR普及のために「工具の出前」として全国を駆け回りました。

関西イゲタロイ会発足

販売機構の整備の一環として、1958年に関西イゲタロイ会が結成され、第1回総会が伊丹で開催されました。その後主要地区毎に組織化が進み、当社と販売店を結ぶネットワークが強化されました。

イゲタロイニュース創刊

超硬工具の普及と啓蒙を図るため、1956年6月に「イゲタロイニュース」が創刊され、今日まで長きに亘りユーザーとメーカーをつなぐ情報誌として発行を続けており、社内外で高い評価を得ています。

イゲタロイスクール開講

特約店や販売店の第一線営業マンの教育育成のために「イゲタロイスクール」が開校し、その第1回の講義を1963年に伊丹製作所で開講しました。今日まで数多くの受講終了生を輩出し、イゲタロイ拡販の戦力として活躍していただいています。 現在はツールエンジニアリングセンター(TEC)がその機能を継承し活動しています。

第3章 スローアウェイ工具の登場

「地球は青かった」(1961年 ガガーリン少佐)からアポロ11号の月面着陸(1969年)まで、米ソ間での宇宙開発競争が展開された1960年代ー。国内では、新幹線開通、東京オリンピック開催、安保闘争など世界の耳目を集めるニュースが相次ぎました。切削工具のイノベーションは、1960年代におけるスローアウェイ工具の登場であり、超硬工具に多大な変革をもたらしました。当社では業界に先がけて、SEC-(※)工具の開発普及に努め「スローアウェイ工具のパイオニア」として機械加工の革新に貢献しました。この時期、イゲタロイの増強を図るために九州・北海道等の量産製造拠点の設立が行われました。

(※) 住友電工のスローアウェイ工具の総称

当時の写真と解説

「井ゲタロイ」から「イゲタロイ」へ

1938年に登録された「井ゲタロイ」の商標は、1959年10月「イゲタロイ」に改称され今日に至ります。住友の標章である「井桁」に因んで「井ゲタロイ(IGETALLOY)」と名づけられましたが、商標に込められた"I GET ALLOY"(我、合金を得たり!)の感動とチャレンジ精神は、今日まで脈々と受け継がれ当社粉末合金部門の精神的支柱となっています。

SECバイト20型/30型シリーズの展開

「3型SECバイト」が基本形となり、1966年には新規格(CIS、JIS)に基づいたカムロック式の「SEC-30型バイト」とクランプオン式の「SEC-20型バイト」が製品化されました。

SECバイトシリーズ

さらに1976年に「SEC-小径ボーリングバイト」、1977年にISO規格準拠の「SEC-70型バイト」など、内径加工や外径加工用旋削バイトのスローアウェイ化が急速に進展しました。

SECカートリッジの開発

業界に先がけて「SEC-カートリッジBU型」が1968年に、「SEC-マイクロユニットMP型」が1971年に開発され、加工時間の大幅短縮をもたらす複合ツーリング用工具として評価されました。

ダブルシアークリア刃形をもつPGM型用チップ(CSP53R)

SEC MILLハイクリアーシリーズが一世を風靡

国産第1号のSECカッタ開発の経験を生かして、斬新な創意工夫の加えられた「SEC-MILLハイクリアーシリーズ」3タイプが1966年7月に発売されました。特にPGM型はシリーズの中でも最も人気を博し、一世を風靡するベストセラー商品となりました。

イゲタロイ「Eシリーズ」の開発

1960年代にイゲタロイ新材種「Eシリーズ」(ST20E/U10E/G10Eなど)が相次いで開発され、ろう付けバイトやスローアウェイチップ用として主用されました。大阪万博を記念した「タイムカプセルEXPO70」にも収納(大阪城公園内)されています。

イゲタロイ長尺圧延ロール

大型サイズの合金を作るため、1962年頃に静圧成形(ラバープレス)を採用した国内最大の圧延用超硬ロール(直径60mm×長さ1400mm)を作成し、翌1963年に『日刊工業十大新製品賞』を受賞しました。

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